kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【樋之尻口地蔵】(ひのしりぐちじぞう)大阪市平野区

【樋之尻口地蔵】(ひのしりぐちじぞう)大阪市平野区


樋之尻口は大坂城の東南にあたる平野郷の環濠集落に13ヶ所あった出入口のうちのひとつ。八尾から柏原を経て奈良に通じる重要な位置にあり、遠見櫓と地蔵菩薩が祀られた地蔵堂があった。慶長15年(1615)5月7日、幸村は徳川家康が大坂城総攻撃のためこの付近を通過すると予測し、この地蔵堂に地雷を仕掛けていたという。幸村の読みの通り家康は付近で休息をとったものの、爆発時には家康は所用で席を外していたため間一髪で命拾いをしたと伝わっている。この爆発により地蔵菩薩像の首は300メートルも吹き飛び全興寺の境内に落下、現在でも同寺に安置され「首無し地蔵」と呼ばれている。


住所:大阪府大阪市平野区平野東2-11
アクセス:地下鉄谷町線平野駅下車徒歩10分



【樋之尻口地蔵】(ひのしりぐちじぞう)


大坂夏の陣 慶長二十年(1615)五月六日の道明寺合戦に敗れた豊臣方は、真田幸村隊を殿軍(しんがり)として、大坂城に退却することとなりました。


豊臣方を追撃する徳川家康が、恐らく通り、平野にて補給と休息をとると考えた幸村は、樋尻門の傍らにあった地蔵堂の下に地雷火を仕掛けと、家康の到着を待ちました。


案の定、家康がやってきて、まさに爆発するであろう時に、小便がしたくなり、その場を離れたその時に、爆発し、九死に一生を得たのでした。


爆発音を確認した、幸村隊は一斉に攻め入りましたが、家康は樋尻橋の下に隠れた後、馬は竹淵(たこち)堤を走り、辰巳池の葦の中に逃げ込みました。


幸村隊は辰巳池も調べましたが、もし家康が潜んでいるのなら、葦の葉が池の内側に向いているはずなのに、みな外側を向いているため、兵たちは怪しまずに引き上げ、命拾いしたという伝説です。


地蔵堂のお地蔵様は、家康の身代わりとなり、首が「全興寺」(せんこうじ)まで飛んでいったと伝えられ、現在でも、「首地蔵」として大切に祀られています。


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安藤正次墓所



戦国時代、堺とともに自治都市として発展した平野です。現在の大阪市平野区の北部地域を中心です。豊臣秀吉の時代から江戸時代初期まで、平野の領主は北政所(秀吉の正室・おね)。1624年に彼女が亡くなったあとは幕府領となりました。
平野の町なかに、立派な五輪塔が建っています。大坂夏の陣で命を落とした徳川方の武将・安藤正次の墓です。安藤正次は徳川秀忠の旗本として、大坂冬の陣・夏の陣に出陣しました。