kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【大納言塚】(だいなごんづか)豊臣秀長の墓所

『豊臣秀長』の墓所。天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました。当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院<だいこういん>という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました。


しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。


その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆<えいりゅう>や訓祥<くんしょう>が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました。五輪塔は高さ2メートルで、地輪の表面には戒名が刻まれています。




場所:奈良県箕山町


アクセス:近鉄「郡山駅」から徒歩で10分





■ 豊臣秀長




豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。


豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。


最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。




時代: 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕: 天文9年3月2日(1540年4月8日)
死没 :天正19年1月22日(1591年2月15日)
改名: 小竹(幼名)
木下長秀→羽柴秀長→豊臣秀長



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