kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【石宝教会】(せきほうきょうかい)奈良県生駒市

【石宝教会】(せきほうきょうかい)奈良県生駒市



奈良県生駒市の「宝山寺」から暗峠へ向かう国道308号線(道幅が狭いことで有名)の途中で、不動様と石仏がある不動院のような建物があります。由緒等は不明ですが、護摩の奉納の日について書かれた案内板に「石宝教会」と書かれてありますので、その教会に関する神様が祀れた場所だと思います。










住所:奈良県生駒市菜畑町2313−267


アクセス:宝山寺駅出口から徒歩約20分






【中臣須牟地神社】(なかとみすむちじんじゃ) 大阪市東住吉区

【中臣須牟地神社】(なかとみすむちじんじゃ) 大阪市東住吉区



由緒について ;延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年前の御創建である。 御祭神は、主神(神産霊大神、手力雄命、天児屋根命)、相殿(天日鷲命、大己貴命 、宇賀魂命)、追祀(少名彦命、素盞嗚命、住吉大神)である。 本社は古来酒造の祖神として将又医薬の祖神として衆庶の信仰厚く、又文武両道の守 護神として御神徳顕著であった。 社領は住吉大社二万二千石の中の三百七十五石余りであったが、社領減地の節没収さ れたと記されている。 本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、 岡田氏等の協力のもと再建し、元和四年八月二十一日、遷座の式が挙げられ、この日 を祭典の日と定められている。 元文元年九月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命 じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめられ、今尚現 存している。境外末社多米神社は多米連の建てた神社と言われ、延喜式内の旧い社で 、別名を「苗見神社」とも「種貸神社」とも言われ、又「鎮座の社」「苗見の森」「 種貸の森」又はただ「明神さま」とも唱えられ浪速名所の一つに数えられていたので ある。多米神社の御祭神は宇賀魂命、神稚魂神、保食神とされている。境内末社農神 社は農耕の神として農民の尊敬厚く、今の長居墓地東北百米の三つの池の中央に土塀 をめぐらし一本の松の木の下に社があったのである。農神社の御祭神は大己貴命。








住所:大阪市東住吉区住道矢田二丁目9


アクセス:近鉄南大阪線「矢田駅」から東へ500M






【瓜破天神社】(うりわりてんじんじゃ)大阪市平野区

【瓜破天神社】( うりわりてんじんじゃ)大阪市平野区



この神社は瓜破小学校のすぐ東に鎮座しています。御祭神は、素盞嗚尊、菅原道真、平維盛。由緒について;「瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録(天文元年、1736記)によれば、 孝徳天皇の大化年中(645~649)当地に居住された高僧、船氏道昭が、 5月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。 道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起原であると記されている。
 当社の北部に牛頭天王を祀る社(祭神 素盞嗚尊、起源鎮座年月不詳)があって北の宮と言われていた。慶長年代(1596~1614)に至り公命によって北の宮を西の宮へ 合祀した。寛永年間(1624~1643)に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破) を形成し、そこに氏神として祀った天満宮(祭神 菅原道真、創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神社(祭神 平維盛)があった。この社は、寿永年間(1182~3) 平重盛に大恩を受けた源氏の武将湯浅七郎兵衛宗光が京都守護職として赴く際、当地にて重盛の嫡子、 維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び追悼慰霊を営み、神領五十歩を寄進して宮居を建てたのが起原とされている。その後天和年間(1681~1683)当地本郷地、 村民の熱意によって現今の地に勧請され氏神(小松神社)となる。
 以上の各社、社領地は、特に永正より大永年間(1504~1527)に亘る足利と細川の 攝津河内の戦乱に被害をうけたが、村民は維持、興隆に努めてきた。明治43年には公命により各社は、当天神社に合祀され、昭和時代を迎えて村民の希望によって、再び 各社に分霊鎮座された。」
 現在社殿は、東面し流造檜皮葺、江戸末期の修葺で、境内末社として「金光稲荷社」(祭神 倉稲魂命、創立鎮座年月不詳) があります。







住所:大阪府大阪市平野区瓜破5丁目4−19


アクセス:地下鉄谷町線「喜連瓜破駅」から約1.3km、又は
市バス「瓜破神社前」から100m以内








【錦織神社】(にしきおりじんじゃ)大阪府富田林市

【錦織神社】(にしきおりじんじゃ)大阪府富田林市



地元では、錦織を「にしこり」「にしこおり」「にしごり」と呼ばれています。 所在地は本来の錦織地区からはかなり離れています。神社のある地域は、太古は「錦部(にしごり)部」と呼ばれていたらしく、旧くは織物の技術を持つ人々が百済より渡来し住みついていたとされています。神社は錦部部(錦部氏)の氏神です。 創建年代は不明ですが、昭和10年(1935年)の本殿修理の際に地中から平安時代中期の丸瓦・平瓦が発見され、その頃か、又はそれ以前に創建されたと推定されています。 川西小学校の門の横に鳥居があり、そこから約150メートルの長い参道が続いています。社務所と拝殿の間を通り抜けると、正面に本殿、その両脇に摂社の社殿が並んで見えます。 主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真 です。それぞれ中央、左側、右側の社殿に祀られています。





所在地 : 大阪府富田林市宮甲田町9-46


アクセス:近鉄長野線「川西駅」から西へ徒歩約5分



【烏帽子形八幡神社】(えぼしがたはちまんじんじゃ)河内長野市

大阪府河内長野市喜多町に【烏帽子形八幡神社】(えぼしがたはちまんじんじゃ)があります。
旧社格は村社。 祭神:素盞鳴命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇。 烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城という城があった。楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したものと伝えられる。その後暫く荒廃していたが、室町時代の文明12年(1480年)(昭和40年の解体修理時に棟札・棟束からこの年代のわかる墨書が発見された)に、河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した。その後、室町末期に一度修理されたのみで荒廃していたが、元和3年(1617年)に楠木一族の後裔と言われる甲斐荘喜右衛門正保が、大阪四天王寺の普請奉行を勤めた折、その竣工後に自身の居城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、その余材で改修したとされる(元和8年(1622年)8月に竣工)。






住所:大阪府河内長野市喜多町305


南海高野線・近鉄長野線 河内長野駅 より旧高野街道を南へ徒歩約15分