kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

「奈良・西ノ京・斑鳩自転車道」


「奈良・西ノ京・斑鳩自転車道」
奈良市の高野原付近から近鉄奈良駅までつづく舗装された道👇





転害門「てんがいもん」👇

転害門 境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。 平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。






大仏殿👇

東大寺 指図堂
「戒壇院」から「大仏殿」の方へ少し戻って北へ向かう右側に、円光大師(法然上人)二十五霊場第十一番、「指図堂」があります。


平重衡の兵火で、1180年(治承4年)大仏殿が炎上し、その復興に俊乗坊重源上人が当たり、上人は自らを南無阿弥陀仏と称するほど浄土信仰に篤く、また、重源上人の招きにより、法然上人が再建途上の「大仏殿」で浄土三部経を講じ、更に東大寺が又もや兵火で焼失し、ここに大仏殿復興の計画図面を収める「指図堂」が禅宗様で正面左右に花頭窓をとって建てられ、その後、浄土宗徒の願いにより霊場となりました。


堂内の正面に墨染の衣に金剛草履を履いた法然上人が祀られています。





754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。


戒壇院」は、754年(天平宝勝6年)鑑真和上が来朝し、4月我が国で初めて正しい戒律を聖武太上天皇や光明皇太后、娘の孝謙天皇らに大仏殿前で受戒した土壇(インド、中国、日本の土)を遷して戒壇堂を築き、伽藍を造営したのが起り。


ここから多くの僧が巣立ち、その後、1180年(治承4年)12月全焼し、重源上人が鎌倉時代に復興。


1446年(文安3年)、1567年(永禄10年)にもまた炎上し、現在のお堂は、1731年(享保16年)再建で、堂内の多宝塔に多宝如来と釈迦如来が並び、廻りを南東角から右廻りに天平塑像高さ約1.6mの四天王(持国、増長、廣目、多聞)が取り巻いています。










依水園


 「戒壇院」の緩やかな石段を下りて南へ向うと、東大寺境内で無く、古くは興福寺の子院「摩尼珠院(まにしゅいん)」があった所で、鎌倉時代頃から吉城川の水門が在った水門町です。


1670年代(延宝年間)から吉城川で名産奈良晒(さらし)が晒され、それを業としていた清須美(きよすみ)さんが、「南大門」や「若草山」を借景にして造られた名勝庭園「依水園(いすいえん)」が在り、園内に磁器を展示の「寧楽(なら)美術館」も在ります。