kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【浮雲神社(5番)】 【聖明神社(6番)】 【愛宕神社(7番)】奈良公園内

【浮雲神社(5番)】 【聖明神社(6番)】 【愛宕神社(7番)】奈良公園内



【浮雲神社(うきぐもじんじゃ)(春日大社)】は創建神話の舞台と同体と考えられてきた神社で、「奈良春日野国際フォーラム甍」・「春日大社萬葉植物園」から比較的近い奈良公園内にある小さな神社です。


非常に多数存在することで知られる春日大社の末社の一つとなっています。


この神社は春日大社の創建神話において鹿島神宮の神様が降臨された「浮雲峰(御蓋山)」と同じ名前である通り、浮雲峰の頂上にある禁足地にある「本宮神社」と同体の存在と考えられてきたという深い歴史を持っており、そのようなルーツがあるからなのか、周辺には同じく末社である「天神社」・「聖明神社」・「愛宕神社」などがありますが、この【浮雲神社(うきぐもじんじゃ)のみ檜皮葺の社殿となっています。



藤原氏の先祖とされる「天児屋根命」をお祭りしています。






ご祭神は天児屋根命様、例祭は毎年7月25日に執り行われています。





◆近郊の神社👇


「奈良・西ノ京・斑鳩自転車道」


「奈良・西ノ京・斑鳩自転車道」
奈良市の高野原付近から近鉄奈良駅までつづく舗装された道👇





転害門「てんがいもん」👇

転害門 境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。 平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。






大仏殿👇

東大寺 指図堂
「戒壇院」から「大仏殿」の方へ少し戻って北へ向かう右側に、円光大師(法然上人)二十五霊場第十一番、「指図堂」があります。


平重衡の兵火で、1180年(治承4年)大仏殿が炎上し、その復興に俊乗坊重源上人が当たり、上人は自らを南無阿弥陀仏と称するほど浄土信仰に篤く、また、重源上人の招きにより、法然上人が再建途上の「大仏殿」で浄土三部経を講じ、更に東大寺が又もや兵火で焼失し、ここに大仏殿復興の計画図面を収める「指図堂」が禅宗様で正面左右に花頭窓をとって建てられ、その後、浄土宗徒の願いにより霊場となりました。


堂内の正面に墨染の衣に金剛草履を履いた法然上人が祀られています。





754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。


戒壇院」は、754年(天平宝勝6年)鑑真和上が来朝し、4月我が国で初めて正しい戒律を聖武太上天皇や光明皇太后、娘の孝謙天皇らに大仏殿前で受戒した土壇(インド、中国、日本の土)を遷して戒壇堂を築き、伽藍を造営したのが起り。


ここから多くの僧が巣立ち、その後、1180年(治承4年)12月全焼し、重源上人が鎌倉時代に復興。


1446年(文安3年)、1567年(永禄10年)にもまた炎上し、現在のお堂は、1731年(享保16年)再建で、堂内の多宝塔に多宝如来と釈迦如来が並び、廻りを南東角から右廻りに天平塑像高さ約1.6mの四天王(持国、増長、廣目、多聞)が取り巻いています。










依水園


 「戒壇院」の緩やかな石段を下りて南へ向うと、東大寺境内で無く、古くは興福寺の子院「摩尼珠院(まにしゅいん)」があった所で、鎌倉時代頃から吉城川の水門が在った水門町です。


1670年代(延宝年間)から吉城川で名産奈良晒(さらし)が晒され、それを業としていた清須美(きよすみ)さんが、「南大門」や「若草山」を借景にして造られた名勝庭園「依水園(いすいえん)」が在り、園内に磁器を展示の「寧楽(なら)美術館」も在ります。




【添御県坐神社】 (そうのみあがたにいますじんじゃ)奈良市三碓

由 緒について


 添上郡の同名の式内社に比定されている。論社は三碓町(みつがらす)の同名社であり、『大和志』は三碓町、『大和志料』は歌姫の当社、理由は三碓町は往時の鳥見庄にあり、鳥見の名は著名であり、よって鳥見御県神社とでも命名されていたのではないか、また鎮座地を御県山と言うことなどをあげている。


 御県神社は『延喜式祝詞』のい「御県に坐す皇神等の前に曰さく、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布と御名は曰して、この六つの御県に生り出づる、甘菜・辛菜を持ち参ゐり来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こしめすが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称辞竟へまつらく」とあるように大和には六つの御県があって朝廷への菜を調進し、御県神が祀られていた。


祭神:速須佐之男命 


配祀:櫛稻田姫命、武乳速命



住所:奈良県奈良市歌姫町999


アクセス:バス歌姫町北へ300m





【添御県坐神社】(そうのみあがたにますじんじゃ)




◆近郊の神社👇


「天白大神」(てんしろじんじゃ)奈良県奈良市

県道751号線を歩いていると道沿いに朱色の鳥居が見えてきます。 近鉄京都線平城駅から真っ直ぐ東へ、奈良市佐紀町に佇んでおられる小さな「天白大神」。バス停「歌姫町」のところに鎮座しています。


近郊に「添御県坐神社」( そうのみあがたにいますじんじゃ)があります。


場所:奈良県奈良市 県道 751 号線層沿い。バス停「歌姫町」



【葛木神社】(かつらぎじんじゃ)奈良市佐紀町1248

【葛木神社】(かつらぎじんじゃ)は、平城宮跡の北側、「佐紀町」エリアの集落の一角に位置する神社です。
ご祭神については金剛山葛木神社と同じ祭神である一言主大神を祀っています。


社伝においては仁徳天皇皇后であり、嫉妬深い人物として別居したまま亡くなった「磐之媛命(いわのひめのみこと)」との関係性や、金剛山頂にある金剛山葛木神社とのつながりが推定されています。


「磐之媛命陵」は神社の東側、500mほど離れた場所にあり、神社の本殿は陵墓の方角を向いた形となっています。




住所:奈良県奈良市佐紀町1248


アクセス:
近鉄大和西大寺駅(北口1番バスのりば)から奈良交通バス「JR奈良駅西口」行き乗車、「平城宮跡・遺構展示館」バス停下車、北に徒歩約6分



葛木神社由来 (境内案内板より)
金剛山の葛木神社と奈良の桂木神社の関係について、金剛山の葛木神社の社記伝説によれば人皇第十代崇神天皇戌寅七年御造営神戸司を附し給うとあるにより、或は今から二千年昔に創祀されたのではないかと思われますが、其后武内宿禰の子孫であって神宮皇后の三韓征伐后貢物を献らなかった朝鮮新羅に十五代応神天皇の六十二年征夷大将軍として大功を立てられた史上有名な葛城襲津彦は、近年の南葛木、北葛木の両群を所有していた大豪族葛木氏の名将で、皇室の外戚の杖を握っていました。


そして金剛葛城の山の東麓なる高丘宮に住んでいました。其の当時の第十六代仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘葛城磐之媛を娶られて皇后とせれられ,今の大阪なにわに都して仁政を施されたことは人のよく知られるところであります。


そして磐之媛は仁徳天皇の正妻として、履中天皇・反正天皇・充恭天皇 三天皇を生み奉られた才媛の皇后でした。


ところが皇后が紀州へ行かれた留守の間に仁徳天皇が八田皇女に気を移し側室とせられた事を、大阪湾の船の上で知って大いに憤慨され、天皇の願いにも反対して浪速に帰れず、淀川木津川を遡って奈良を過ぎ、大和の郷里高岳宮の見ゆるところまで行かれ、奈良坂で有名な歌を詠まれ、再び山城へ引返し筒城宮京都府□□郡田辺町普賢寺附近に居られた。


天皇は何度も使いをやられたが、遂に自ら出向いて説得せんとせられたが断られた。そして数年後筒城宮で一人寂しく亡くなられた。


亡骸は平城坂上陵奈良市佐紀町に葬られ、其の悲恋を今に伝えています。仁徳天皇は即位の元年葛城の峰大宮を尊敬して宮主祝部を置かれとあるによって、葛木神社に宮司を置いて祭られたことを思い出し、嫉妬しつつも天皇を愛して居られた磐之媛は、佐紀町に葛木神社を祀って祖先の豪族葛城氏を敬愛せられたのではないでしょうか。


其の后葛木神社御祭神事代主神が、人皇第廿一代雄略天皇猪狩の際、一言主神として御出現遊ばされてより、後世金剛山葛木神社も奈良の葛木神社も共に一言主神として奉祀されることになったのではないでしょうか。


     


葛城神社



◆近郊の「平城宮跡」👇