kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【薬園八幡神社】 (やくおんはちまんじんじゃ)大和郡山市

 【薬園八幡神社】 (やくおんはちまんじんじゃ)大和郡山市




鳥居の横に「国史現在社薬園八幡神社」の石碑が立っています。これは『続日本紀』(巻十七)に、「天平勝宝元年(747)十一月、於南藥園新宮大甞。以因幡爲由機國。美濃爲須岐國。」とあることによります。


東大寺の大仏建立の宇佐八幡大神が多いに力を発揮し、宇佐から八幡大神を大和に勧請しました。その際、平城京の南、当社の北約1kmの梨原の薬園新宮内にお迎えしました。後に東大寺へ遷座の際、御神霊の分霊は当社にと留まりました。


聖武太上天皇の勅願で、朝廷より奉幣に預かったが、次第に衰え、足利時代末期に当地に返還。



◆東大寺の大仏建立


奈良の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。




大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。


聖武天皇は疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。


そのような状況の中、宇佐の八幡神から「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。


八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗(ぬ)る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。




所在地:大和郡山市材木町32


アクセス:近鉄大和郡山駅より東へ徒歩10分











薬園寺本堂(やくおんじほんどう)が隣接しています👇




本堂は桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、本瓦葺で、棟札銘から寛永21年(1644)に建てられたことが判明しています。


 向拝の組物の実肘木<さねひじき>、蛙股<かえるまた>、頭貫<かしらぬき>、象鼻<ぞうばな>などは建立当初の形式をよく残しています。堂内は一面に格天井<ごうてんじょう>を張り、中央後ろ寄りに須弥壇<しゅみだん>を置き、厨子内に本尊の薬師如来を安置します。正面は内開きの蔀戸<しとみど>で、三方に縁をまわす形式。後世の改造や損傷はありますが、上質で年代の確かな基準作とされています。


 もともとは隣の薬園八幡神社と一体のものでしたが、明治9年に分離独立したといわれています。




◆近郊の神社👇


【飛鳥神社】(あすかじんじゃ)奈良県奈良市北京終町

【飛鳥神社】(あすかじんじゃ)は、奈良県奈良市北京終町にある神社。一般に京終天神社、他に紅梅殿神社、平城坐飛鳥神社とも呼ばれます。



飛鳥神社の祭神である菅原道真(すがわらのみちざね)は江戸時代に京終郷と高畠村の灌漑用水の利用をめぐる水論の際、高畠村(高畑村)が将軍家に訴えたが、京終郷が菅原道真(天神さん)を祀る北野天神に祈願したところ利運を得た為に合祀されるようになったと言われています。






所在地:奈良県奈良市北京終町45


アクセス:JR、近鉄奈良駅から「市内循環内回り」乗車、「北京終町」下車、南に徒歩2分。又はJR京終駅から北に徒歩5分



奈良市史によると祭神は以下の五柱と言われいます。


●事代主神
●加夜奈留美命
●宇須多岐比女命
●不足留比女命
●菅原道眞





この神社から奈良町を通ってずっと北へ行くと「猿沢池」「奈良公園」に着きます👇



Blog貼付用動画『興福寺五重塔』アメブロ(Ameba)







平城宮跡の南に佇む【北新天満宮】(きたしんてんまんぐう)奈良市二条大路南

北新天満宮は、奈良を代表する観光地である「平城宮跡」の南側すぐの位置にある神社です。
この神社は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に周辺の村の成立に合わせて創建されたとされており、御祭神については天満宮ということで菅原道真がお祀りされています。


境内に詳しい案内板は設置されていませんが、境内地は美しく手入れされています。


この神社の裏は平城宮跡です。





所在地:奈良県奈良市二条大路南2丁目2-12


アクセス:


近鉄奈良駅・JR奈良駅西口・新大宮駅から奈良交通バス「学園前駅(南)


※奈良市庁前経由」・「恋の窪町」・「二条大路南五丁目」行き乗車、「二条大路南五丁目」バス停下車、北に徒歩5分(大宮通り沿いバス停から)。


又は、西に徒歩4分(高架下バス停から)近鉄新大宮駅から西に徒歩18分






*この神社のすぐ横に「朱雀門」があります👇






奈良朱雀門ひろば「 国営平城宮跡歴史公園」から見える近鉄特急 *Blog貼付用動画



『復元遣唐使船』 奈良市二条大路南4-6-1(平城宮跡歴史公園内)


『復元遣唐使船』



 平成30年(2018)、平城宮跡歴史公園「朱雀門ひろば」の一角、「天平うまし館」に隣接した地に、かつて遣唐使船を精巧に復元されたもの。



 精巧に復元したとはいえ、当時の正確な史料は残されておらず、その規模を含めて復元された姿はあくまでも推定されたものです。



 船体は全長30m、全幅9.6m、排水量300t、積載荷重150tというスケールで復元されています。



 船の見学については、「天平うまし館」入り口で観覧証を受け取り、基本的には通年甲板の上に自由に上がって見学することが出来ます。


 船室内部は見学できないものの、当時の雰囲気を味わうことが出来ます。




 遣唐使について




遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。


中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。






 所 在 地: 奈良市二条大路南4-6-1(平城宮跡歴史公園内)


アクセス:大和西大寺駅南口から徒歩約20分、又は新大宮駅から徒歩約20分















奈良朱雀門ひろば「 国営平城宮跡歴史公園」から見える近鉄特急 *Blog貼付用動画



【養天満神社】(ようてんまんじんじゃ)奈良市西ノ京町

【養天満神社】(ようてんまんじんじゃ)は、参道に近鉄橿原線が横断しています。尼ヶ辻駅の北約二百メートルの位置を東から西へ横断してすぐに境内となります。


 かつては、薬師寺の寺内社でした。現在は、社寺地は線路で分断されています。


創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかのぼると考えられるそうです。祭神は、菅原道真公。本殿は元禄15年(1702)の改築です。



境内社は、熊野神社、蛭子神社、気比神社。社叢は市の指定文化財(1989年指定)です






所在地:  奈良県奈良市西ノ京町216


アクセス:
この神社へ初めて訪れる方は分かり難いかもしれません。


「唐招提寺」バス停と「薬師寺」バス停を結ぶ一方通行のバス通り沿いにある「養天満宮」の表示に従い住宅街を西に進むと、近鉄線の踏切の向こう側に立派な境内を持つ養天満神社が見えてきます。


しかしながら、養天満神社は薬師寺八幡神社のように近鉄橿原線の「線路」で参道が分断されるような形になっています。


神社の鳥居に進む際にどうアクセスすればよいのか分かり難いと思います。住宅街を進む小路から踏切の手前で左側の一般住宅の敷地のようなところを通り、そこに見える踏切を渡ると正面が鳥居となっています。





近郊に「唐招提寺」があります👇




◆近郊の神社👇