kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【稲城址】(いなきのあと)大阪府八尾市

大阪府八尾市の光蓮寺の前に【稲城址】(いなきのあと)の石碑があります。
聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したといわれます。
稲城は稲で囲った城とか、稲積みの城であったとか伝えられています。
この碑は昭和十四年建立されたものです。


住所:大阪府八尾市南木の本7丁目 光蓮寺門前
アクセス:大阪市営地下鉄「八尾南」駅から徒歩約15分/近鉄バス「南木の本」から徒歩約5分



【樟本神社】(くすもとじんじゃ)大阪府八尾市木の本

【樟本神社】(くすもとじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。延喜式神名帳に「樟本神社 三座 鍬靱 河内国志紀郡鎮座」と記される式内社であり、現在の八尾市木の本(旧丹北郡)、北木の本、南木の本(旧志紀郡)の3箇所に鎮座している。


創建の年代は不詳であるが、古墳時代以前に遡ると考えられる。祭神は、古来は木霊とされるが、のち、布都大神、饒速日命。 当地が物部氏の旧領地であり、用明天皇の時代に物部守屋が守護神として崇めていた神々を持ち込んだと考えられる。


最初は木本村に三座あったが、北木本が分村し、さらに南木本が分村してそれぞれに一座ずつ分けられた.


木の本一丁目の旧木本集落内に鎮座する。南木本の楠本神社からひとつ南の辻を西へ辻二つ分進んだところにある。



住所:大阪府大阪府八尾市木の本1-59(木本)
アクセス:大阪市営地下鉄「八尾南」駅から徒歩約20分





【顕証寺】(けんしょうじ)大阪府八尾市

【顕証寺】(けんしょうじ)大阪府八尾市




大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。


久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。



文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。


文明2年(1470年)、蓮如は河内国渋川郡(現在の東大阪市布施から八尾市龍華一帯)を訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺(のち八尾の現在地へ移転。後述)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした[1]。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。


戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。また、本願寺内での蓮淳の地位の高さもあって、交野郡招提や石川郡大ケ塚といった河内国の他の寺内町も統轄するようになった。


安土桃山時代になると、石山合戦の際に顕証寺は講和派(顕如)、慈願寺は抗戦派(教如)に分かれ、激しい対立関係に発展した。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。慶長11年(1606年)、顕証寺と安井氏の支配に異を唱える慈願寺と森本行誓ら17名の住人は久宝寺寺内町を出て、旧大和川の本流にあたる現在の長瀬川の東岸、若江郡八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。


慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。


江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺村から寺内村(八尾)に移っていった。





所在地 :大阪府八尾市久宝寺4-4-3
アクセス:
JR大和路線 久宝寺駅徒歩8分
近鉄大阪線 久宝寺口駅徒歩13分




【八王子神社】(はちおうじじんじゃ)「常世岐姫神社」大阪府八尾市

【八王子神社】(はちおうじじんじゃ)「常世岐姫神社」大阪府八尾市



大阪府八尾市にある式内社で「常世岐姫神社」といったが地元では【八王子神社】(はちおうじじんじゃ)として親しまれている。古記録によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常世岐の姓を与えたという。この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。八王子神社=常世岐姫神社:河内国大県郡の人正六位赤染(茜染)人足ら13人に常世連の姓を与えられ、その祖神をまつったものであろうと言われている。この神社の近くに「神宮寺小太郎の墓」があります。神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人である。正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。



 住所:大阪府八尾市神宮寺5丁目 


アクセス:近鉄恩智駅から徒歩約17分



【神劔神社】(みつるぎじんじゃ)大阪府八尾市

【神劔神社】(みつるぎじんじゃ)は二百二十五年以前の元文元年辰歳国分村反師枩井四郎兵衛らによって造営され素戔嗚命、保食神の二神を祀り田井中村の氏神として永く村民の尊敬を集め弥栄えてきた。
往時の旧大和川縁辺に当たる現東老原地区の五条宮跡附近から奈良朝時代の古瓦が発見されたことからみて 田井中村の発祥は極めて古く、從って当社の在史も村発祥の昔にさかのぼるものと思われるが 旧大和川の度々の氾濫により村民は難をのがれるため南に移住し前記の時代に現在地に当社が再建されたと推量される。明治五年村社に列し明治末期神社合併に從い誉田神社の末社として一時期合祀されたが大正十四年十月還御遷宮祭が執り行はれた。昭和二十七年当時の宮司西沢善一氏により宗教法人として神社庁に登録され同時に官有地であった神域も無償で拂下げを受けた。此の度八尾市立志紀小学校防音改築工事に伴い市当局の要請により当社の神域を南北五四米東西十九米から南北十九米東西五四米に改変することとなりこれを機に市負担にて境内を高く盛土し、南向きの神殿拜殿を西向きに移転修復しあわせて鳥居玉垣社務所等の施設を新築整備して当社の往古に優る繁栄と末長き町民へのご加護を祈願しつヽ氏子一同挙げて正遷宮祭を執り行う。



住所:大阪府八尾市田井中3丁目178
アクセス: JR「志紀」駅から徒歩約12分/近鉄バス「田井中」から1分