kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【大津神社】(おおつじんじゃ) 大阪府羽曳野市

【大津神社】(おおつじんじゃ) 大阪府羽曳野市



大阪府羽曳野市高鷲にある神社で、延喜式神名帳に記載されている、河内国丹比郡の式内社。 厄除開運、縁結び、安産、家内安全、交通安全、引越しや住居のリフォーム等の方災除けのご利益があるとされる。祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稻田姫命(くしいなだひめのみこと)、天日鷲命(あめのひわしのみこと)。大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(885~930)の御代に編纂された『延喜式』(927)に 「大津神社三座鍬・靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。 応仁天皇(4 - 5世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見ることに至った。 当時、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる「葛井氏・船氏・津氏」の三氏が勢力を張っており、この三氏のうち津氏一族がこの地をトして「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説である。 このように、大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ヶ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられた。 その後、仏教の隆盛に伴い、『本地垂迹説』に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けることとなる。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれた。 明治維新になると、新しい神社制度が定められ、神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲・埴生両村の氏神として明治5年5月村社に列格され、「神道大津神社」となった。




住所:大阪府羽曳野市高鷲8-1-2


アクセス:近鉄南大阪線「高鷲駅」南口から徒歩すぐ。


【小山産土神社】(こやまうぶすなじんじゃ) 大阪府藤井寺市

【小山産土神社】(こやまうぶすなじんじゃ) 大阪府藤井寺市



室町時代に神宮寺として再建され、祭神を牛頭天王としていましたが、現在は産土神社として素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っています。 本殿は一間社流造で、主要部分は創建当時の状態をよく留めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として貴重です。 産土とは産室のある場所の砂、土の事を意味した。産室は昔は離れた所に作られ、そこで出産をしたのである。いつの間にか、産土を誕生の土地を意味するようになった。


境内の案内板には次のように書かれています。


由緒;御祭神;素盞嗚尊命。


 室町時代、現本殿の蟇股(カエルマタ・桃山様式)は、当時の儘の蟇股を残しております。蟇股は藤井寺市内では、最古の物であり神仏習合社の証でもあります。又、元禄5年(1693)「寺社数改帳」に志紀郡小山村の守護神、小山牛頭天王と隣接するお寺天王山「清圓寺」が記載され、神社神紋、清圓寺仏紋も同じく五仏に唐花と成っております。清圓寺の屋根等をご覧下さい。尚、祀り事は、大正後期まで清圓寺住職により行われておりました。


 明治維新(神仏判然令)、明治12年以降の本殿、御神鏡裏には河内小山坐、進雄(スサノオ)神社鏡と記されおります。


その後、昭和17年寄進石碑に産土神社(生まれた土地の神)と神社前にありますが、神社庁記載には、戦後の昭和27年頃に産土神社としております。


本殿:疫病神・魔除等・牛頭天王(仏像神・江戸後期作)
・進雄尊(御神鏡釜等)、現在は素戔嗚尊命(神社庁登録)
      
末社:金刀比羅社・・・・・・水の神  
本来は、11面観音菩薩を本地仏として右側に不動明王、左側に毘沙門天の2体の脇侍仏でありますが、当神社、金比羅社内は、同じく3社宮となっておりますが明治32年以降より現在の大物主の尊の御神垂と両脇社内は神垂のみと成っております。


末社:稲荷社
現在は商売繁盛の神としても崇められております。本尊 稲田姫(仏像神・江戸後期作)





住所 : 大阪府藤井寺市小山4-7-9


アクセス:近鉄「藤井寺駅」1出口から徒歩約11分


【つるのはしの跡】大阪市生野区

【つるのはしの跡】大阪市生野区




古代・仁徳天皇の時代に、多くの百済からの渡来人が住む地を「百済郡」と呼んでいたが渡来人がブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになったとのことです。渡来人の優れた技術により、文献上日本最古の橋が「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことが現在の「鶴橋」の地名になったそうです。 ツルがよく飛来したので「つるのはし」と呼んだそうで全長約36m、幅約2mの古代では大きな板橋だったそうです。1940年に旧平野川が埋め立てられ道路になり、1997年に橋があった近くにつるのはし跡公園が作られています。公園には顕彰碑や「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」という小野小町(おの の こまち825年頃-900年頃)がつるのはしを渡ったとき詠んだと言われる歌碑などが建てられています。つるのはし跡は百済から多くの先進技術が伝来したことを証明します。






所在地:大阪市生野区桃谷3丁目


アクセス:近鉄・JR・地下鉄千日前線「鶴橋」下車、東南へ約500m(徒歩約5分)



【立江地蔵尊菩薩】(たつえじぞうそんぼさつ)大阪府八尾市植松町

大阪府八尾市植松町に【立江地蔵尊菩薩】(たつえじぞうそんぼさつ)があります。この地蔵尊には石仏1体が祀られています。地蔵堂横に同型の燈籠2基が建てられていて、竿に「太神宮」と刻まれているものには、宝暦七年(1757年)、「象頭山」と刻まれているものには、安政三年(1856年)の年号があります。なぜこの場所に立派な燈籠があるのか、また、この【立江地蔵尊菩薩】の由緒等も不明です。このすぐそばに「森高大神 / 友黒大明神」があります。






場所:大阪府八尾市植松町7丁目1



【穴太神社】(あのうじんじゃ)大阪府八尾市

大阪府八尾市宮町一丁目に鎮座する【穴太神社】(あのうじんじゃ)です。 河内国若江郡の穴太邑が当地で、『姓氏録』未定雑姓の河内国にみえる孔王部首(あなほべのおびと)氏の住地でもありました。 穴太は現在、「あのう」と読まれています。祭神は、天照皇大御神、住吉四神(上筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后)、春日四神(建御賀豆智命・伊波比主命・天子八根命・比売神)です。聖徳太子の生母で用明天皇の皇后である間人(泥部)穴穂部皇女の生地と称しています。






住所:大阪府八尾市宮町一丁目


アクセス:近鉄「八尾」駅から徒歩約15分