kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

GO TO トラベル 【奈良編】 その2 真言律宗総本山 西大寺~野神神社~西大寺奥の院~興福寺五重塔~東大寺二月堂~五劫院~奈良町~厄除け観世音慈眼寺 / 奈良ホテル

GO TO トラベル 【奈良編】 真言律宗総本山 西大寺~野神神社~西大寺奥の院~興福寺五重塔~東大寺二月堂~五劫院~奈良町~厄除け観世音慈眼寺 / 奈良ホテル




「その1」からのつづきです👇








【野神神社】(のがみじんじゃ)奈良市西大寺




【野神神社】(のがみじんじゃ)は、近鉄大和西大寺駅からはら西に徒歩約6分の位置にあります。普段は横の「野神堂」という集会場が利用されていて一見したところでは普通の公園として見過ごしてしまいそうです




。燈籠には元禄15年(1702年)に奉造されたことが記されています。この神社は周辺の神社の多くを合祀することになった近隣の「十五社神社」に、一度合祀されることが決定しされましたが、現在も【野神神社】(のがみじんじゃ)として合祀された後も存続しています。祭神は「別雷神(わけいかずちのかみ)」がお祀りされています。




境内地には複数の桜の木があり春には満開の桜になります。神社には小さな拝殿と本殿があり、その横には「石仏(十一面観音立像)」も安置されています。近郊には「西大寺」があります。










住所:奈良市西大寺野神町一丁目




アクセス:近鉄大和西大寺駅から西に徒歩約6分











真言律宗総本山 【西大寺 奥の院】(さいだいじ おくのいん)「法界躰性院」


興正菩薩は正応3年(1290)8月25日遷化し、27日に西大寺西北の林間で荼毘に付された。
その地に営まれた御廟所が当院である。門正面に総高三四二センチ、二重基壇の興正菩薩の石造大五輪塔がある。
他に第二代慈真和上、第三代宣瑜上人、性瑜上人、第六四代泓澄和上、諸長老の五輪塔もある。
その後、近世には近在の村墓地として展開した。
廟塔の北西に江戸時代創建の地蔵堂があり、中央厨子に永正11年(1514)海竜王寺比丘仙算、宿院番匠源四郎の造立になる本尊地蔵菩薩立像をまつる。
また、村墓の入口付近に、柱・外壁を角・板の塔婆を用いて作られた木造瓦葺方一間の室町中期創建の納骨堂(骨堂:コツンドウ)があり、毎年の光明真言会結願後に当年遷化した一門僧侶の板塔婆が外周に打付けられる。
近年、地蔵堂の裏に阿弥陀堂を創立して、納骨廻向を受け入れている。また南西に少し離れた所に代々の長老墓もある。







住所 :奈良県奈良市西大寺野神町1丁目6−10



アクセス :近鉄大和西大寺駅から北西に徒歩10分










餅飯殿弁財天社・ 聖宝理源大師堂


正面に「餅飯殿弁財天社」があり、その右手には「聖宝理源大師堂」があります。この左手には宗像神社の小さな社も祀られています。


弘仁4(814)年、弘法大師が興福寺に「吉野天河大弁財天社」より御分神を勧請した際、蕗之畠郷(現在の餅飯殿町)から餅飯のお供えしたそうです。そして、同年、蕗之畠郷にも吉野天河大弁財天社より七弁財天神を勧進したそうです。



「聖宝理源大師堂」の中には、役行者像と理源大師像が祀られています。
聖宝理源大師といえば醍醐寺の開祖とし知られていますが、この餅飯殿町にもゆかりのある人物です。理源大師が東大寺に修学していた際、大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになり、そのお供に餅飯殿の箱屋勘兵衛と若者七人衆が同行したそうです。


そして、無事に大蛇を退治して戻った理源大師と勘兵衛達に町民は餅と飯でお祝いをしたといいます。その後、理源大師からのお礼状には「餅飯殿」と書かれており、これが町名の由来になっているそうです。


「餅飯殿弁財天社」は、餅飯殿センター街の真ん中あたりにあるOK広場の片隅にあります。餅飯殿弁財天七夕夏祭りのとき商店街は「子供みこし」や「大蛇のみこし」で賑わうようです。


■餅飯殿弁財天七夕夏祭り
7月6日:宵宮祭、7月7日:理源大師法要(慶讃法要)、本宮祭




■住所:奈良市餅飯殿町41


■交通:近鉄奈良駅より、徒歩7分


近鉄奈良駅から、南へ300メートルほど下ると 「ならまち」があり、そこに繋がる商店街が「奈良もちいどのセンター街」です。









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