kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【平群坐紀氏神社】(へぐりにますきのうじじんじゃ)奈良県生駒郡平群町

【平群坐紀氏神社】(へぐりにますきのうじじんじゃ)奈良県生駒郡平群町



式内社(名神大)で、旧社格は村社。単に紀氏神社とも呼ばれます。現在は天照大神・天児屋根命・都久宿禰・八幡大菩薩を祭神としています。


社名は「平群に鎮座する紀氏の氏神の社」の意で、紀氏、又は平群氏の末裔である紀船守が、祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀ったもの。延喜式神名帳では名神大社に列しています。中世には春日神を祀り「春日神社(春日大明神)」と称しており、近世には天照大神と八幡大菩薩が祀られていました。現在の祭神は、過去に祀られたことのある全ての神。


近世には「辻の宮」又は「椿の宮」とも称されていました。【平群坐紀氏神社】(へぐりにますきのうじじんじゃ)は元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったものと考えれています。明治6年(1873年)、村社に列しています。



「平群坐紀氏神社」の歴史と由来についてはの詳細は写真最後下の内容をご参照ください。宮司さんより頂いた資料からの抜粋です。






住所: 奈良県生駒郡平群町上庄字辻の宮3


アクセス:近鉄生駒線「平群駅」より北へ700m







👇宮司さんより頂いた資料。平群町に現存する神社数は22社です。



【平群坐紀氏神社】の歴史と由来


「当神社は大宇上庄・椣原・西向3大字の氏神として集落の南端に椿や榊、樫等の繁みの中に鎮座し、昔から椿の宮、辻の宮と呼ばれています。社の中には、明治初期に植栽された樹齢140年にも及ぶ樟が3本あり御神木として祀られています。旧村社(延喜式)神社明細帳に平群群の平群坐紀氏神社に治定とあり、明治25年の明細帳には、中世に天児屋根命を勧請して春日大明神を祀ったと記され明治6年に村社に列する。当地上庄は皇室領平野殿庄の地で木菟14世の紀船主が大納言に任ぜられ、織田として賜ったのが平群郡の皇室領とあり、すなはち(オカミノ庄)が、上庄となったと記載されている。延喜式とは西暦901年、和暦の延喜元年から21年間が延喜年間であり、第60代醍醐天皇の時代で政事を執り行い、延喜の治と称された。紀氏神社はこの時代に建立され、約1100年の歴史があります。皇室領平野殿庄の地に坐します紀氏神社の大祭には当地を治めた荘園主が詣でるが、前夜には金勝寺で宿泊され祭祀日には椣原の座小屋に座をとられるので椣原の座小屋は板張り床にして荘園主を接待したと考えられる。当神社境内には3大字の座小屋があり、参道右手前が上記の椣原の座小屋で、南側が西向、北側が上庄座小屋となっている。ここで木宿菟禰という人物について述べてみましょう。応神天皇には4人の皇子がいました。皇太子となったのは三男の菟道稚郎子皇子でしたが、皇位を次男の大鷦鷯尊に譲ろうとした。大鷦鷯尊が年長であり、かつ仁孝の徳があったからである。しかし、大鷦鷯尊は父の応神天皇が決めたことに背く事はできないといって、弟の申し出を断った。そうして二人が譲り合っている間に応神天皇が崩御し3年間空いたままだった。すると皇太子が自殺し、大鷦鷯尊がやむなく即位し仁徳天皇となりました。
仁徳天皇が生まれた日に、産殿にミミズクが飛び込んできた。不思議なことに、同じ日に式内宿禰の妻も出産し、産屋にミソザザイが飛び込んできました。父の応神天皇はこれは天の啓示だと喜び、二人の子に飛び込んできた鳥の名をつけ、その名を交換することにした。それで、応神天皇は大鷦鷯尊となり、式内宿禰の子は木宿菟禰となった。
上記の式内宿禰と言う人物は、蘇我氏や葛城氏そして平群氏の祖とされ、孝元天皇の皇子、彦太忍信命の孫。八人の子が有力豪族の祖先になったとされる。景行朝から仁徳朝にかけて300年も生きたと伝えられています。
平群谷に紀氏神社の存在から、紀氏、葛城氏、平群、居、波多、蘇我の各氏が式内「健内」宿禰系譜に連なる同族とされ、平群、紀氏ともに木菟「都久」宿禰を同祖ときわめて近い関係にあったことがわかる。
平群町三里にある三里古墳の横穴式石室は、紀伊に多く見られる石棚作りが用いられています。870年「貞観12年」の石川朝臣の土地売券によれば、当時の紀氏神社は町の南の椿井春日神社の杜地に存在していたようで、そこには極めて古式の大陸要素をもった椿井宮山古墳がある。つまりこの平群谷は、平群氏の本貫地であるとともに紀氏の大和における本拠地であったとも考えられる。柿本人麻呂の歌に「もののふの 八十宇治川のさざなみに いざようひ人の 行方知らずも」と言うのがあります。


一部重複しますが、応神天皇三男に菟道稚郎子がおり渡来人の王仁に典籍を学んで父にその才能を買われて皇太子に立てられた。ところが応神天皇没後異母兄の大山守皇子が皇位を狙って菟道稚郎子を攻撃したが、そのとき稚郎子は策を用いて大山守皇子を宇治川に落として殺した。菟道稚郎子と大鷦鷯尊(応神天皇)は皇位を譲り合い、大鷦鷯尊に皇位をつけるため自殺した。仁徳天皇の子である履中天皇は5世紀前半に活躍した天皇で仁徳天皇の後をうけ天下秦平で国力を発展させ、木菟宿禰(平群の祖、紀氏神社祭神)や蘇我満智宿禰等を重臣に政事を任せたとあります。