kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り

神社が好きで関西を中心に廻っています。kazu1000のブログ記事が満杯になりましたので、このkazu2000より引き続き投稿致します。

【金剛寺】(こんごうじ)大阪府河内長野市(2/4)

【金剛寺】(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山。山号は天野山(あまのさん)。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。


寺伝ではインドのアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする。奈良時代の天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる。弘法大師(空海)も修行をしたとされている。平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、治承4年(1180年)には地元の武士である源貞弘から土地を寄進されるなどし、金堂・御影堂などを建立し、再興した。八条院の帰依を受けたほか、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため、「女人高野」と呼ばれて有名となった。


鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。また、この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。また、室町幕府に追われた後醍醐天皇の護持僧である文観をかくまっている。


正平9年/文和3年(1354年)3月には大和国賀名生から北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を当寺に移動させると観蔵院をその行宮とし、10月には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として食堂を政庁天野殿(あまのでん)とするなどして南朝の本拠地とした。


正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。そして正平14年/延文4年(1359年)12月には後村上天皇も観心寺に移った。


正平15年/延文5年(1360年)には北朝の畠山氏の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失する。さらに、文中2年/応安6年(1373年)には、和平に反対する長慶天皇が行在所としていた当寺に、和平派ゆえに北朝に寝返った楠木正儀があえて攻撃を加え、天皇を当寺から除かせて、しばらくの間占領する事件も起きた。


その後は戦火に遭うこともなく、室町時代の永享4年(1432年)頃からは銘酒天野酒を販売して収入源にしたりし、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70もあって威勢を誇り、江戸時代末期には307石の寺領があった。


しかし、明治時代となって廃仏毀釈のためもあり、塔頭は減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみである。しかしながら、主要伽藍などが戦火に掛からなかったので貴重な文化財が数多く残されている。






住所: 大阪府河内長野市天野町996



アクセス:南海高野線および近鉄長野線河内長野駅から南海バス天野山線「光明池駅行き(1系統)」「槙尾中学校前行き(2系統)」「サイクルセンター行き(4系統)」「天野山行き(特4系統)」のいずれかに乗車し、「天野山」バス停下車すぐ。